本「第二の性」/Ⅱ シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1949)


フェミニズムの本流を流れているであろう「第二の性」/1949(シモーヌ・ド・ヴォーヴォワール)を読んだ。

間違えて2巻中の第二巻(Ⅱ)から読んでしまった。

今回読んだのは

邦題:決定版「第二の性」Ⅱ
原題:le deuxième sexe/ L' expérience vécue
1949年 刊行
シモーヌ・ド・ボーヴォワール/著

日本:新潮社 1997年 発行
監訳:中島公子/加藤康子

日本:新潮社 1953年 初刊
翻訳:生島遼一

の内、1997年版です。

なんか微妙に違うみたいですが、どちらも新潮社から出ています。

初刊/生島遼一・訳、の方も読んでみたいですが、Ⅰを読んでからにします。


生島遼一・訳の「第二の性」は、多少構成を変えてあるようです。
しかし、1949年にフランス発刊の本を1953年(昭和28年)に翻訳として日本で刊行したのですから、相当早い翻訳だと思います。

「読んでみて、違和感がない順番で、読み進むのに苦痛ではない並び」というのも大切ですから、こういった、何冊にもなる本は「読者を飽きさせない」のも大切かも。

もしくは、翻訳の順番に刊行し続けただけなのかもしれませんが・・・(急いでいる時)


あまり、順番にこだわる必要も無いと思っています。


それにしても Ⅱ(二番目の性・生きた経験)の凄まじいこと。

1997年版から読んでいますが、監訳が女性二人ということと、訳者11名全て女性の名前しか記載されていないのが、気になる所です。

翻訳は、語学の力や文化的背景を考慮した訳しが必要です。
できれば、語彙の感覚が男性と女性での感じ方の相違を上手く織り交ぜることが必要です。
そうでなければ、偏った訳しになってしまうことが多々あるからです。

例えば、ルデュックの「私生児」の翻訳は、二名の男性の翻訳でしたが、女性の文章とは全く違う翻訳になっています。

しかも、二名の男性の翻訳の訳し方が全く違うので、章が変わる度に「散文詩」に感じたり、「普通の日記」に感じたり、「なめらかな文章」に感じたりと、かなり忙しい感じになっています。

二名の翻訳者どちらの訳しなのか、分かってしまうほど翻訳文が変化してしまうのは、致し方ないのですが、あまりの変化に驚いた覚えがあります。

フランス語は原文で読めないので、やはり、1953年版は必読と思われます。

その折衷が、多分、中道であると思うからです。


 

私が構成の順番に、あまり拘っていないのは、本はどこから読んでも構わないという自由があるからです。

物語や徒然形式であれば、構成や順番を変えてしまうと「あれ?変なことになってる」と思いますが、一章ごとにまとめてある「第二の性」に関しては、Ⅱから読んでも全く違和感がありません。

フェミニストさんたちや、女性解放運動の方々の拘りは執着を超えて、鬼気迫るものがありますので、あまり刺激したくないのですが、「あまり、気にしないほうがいいよ」という気もします。

原文の概要が大きく変化したり、主張の内容自体が全く違うものになってしまっていたら、困ったことですが。


私は西洋の女性の歴史から読むより先に、1949年刊行時の女性の姿が浮き彫りになっている「Ⅱ」から読んでも過不足を感じませんでした。


本文を読み・・・

「びっくり」を通り越して、驚愕していました。

1949年当時のフランスの女性の窮屈なことにです。

西洋の女性は今でこそ、表向きは開かれているように感じていますが、大体、人生の大方の道が存在しているのかもしれません。

私の友人でも、「あれ、そっちに行かないの?」という女性が多く存在します。



[Ⅱ]を読んでいて「数千年前の女性の事?」という不思議な感覚になりました。

もちろん、社会は数万年前から男性が作り上げたピラミッド構造ではあります。

国境、国、肩書、地位、身分制度、職業の差異等などの、細々としたものは男性が作り上げたとは思います。

今は、自分で自分の首が締って苦しそうなので、そろそろ男性も自由になったらどうかなあと思います。

それには、女性が自分を解放するというのも大切ですが、女性が男性を解放するという動きも大切なのではないかと思います。

なぜか、男性は結構臆病なので・・・






子供向けの物語(童話)も西洋(フランス・イギリス・アイルランド・ドイツ・オーストリア・スイス・もしかしたらオーストラリア・・・どっか抜けててたらすみません)のキリスト教圏のものは、かなり似通っています。

女性と男性の社会的性別(ジェンダー)と、生物学的性別(SEX)が混同されていて、それはまた面白いものですが、「Ⅱ」を読んで「白雪姫」のナゾが解けたりしました。

白雪姫のお母さん(一応継母という事になっていますが、亡くなったのは同じお母さんの「優しい部分」で、女児が生まれた後に出てきた継母は同じお母さんですが「女児が生まれた時に現れる醜い女性の姿」)も、二人ではなく、実のお母さんひとりでしょう。

継母が「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはダ~レ?」と聞くあの呪文は、年老いていく女性が「鏡」に向かって「不安と恐怖」をぶつけていると考えれば、納得がいきます。

しかも、女児が成長して、老いた母親より見た目がずっと美しくなるのは当然ですし、「殺したいくらい憎い存在」になり得るのは、至極当然の心理状態なのだと思います。
(女児が生まれた瞬間に、自分が赤ちゃんより年寄りだということをイヤというほど思い知るので、若いお母さんの若さが死ぬのでしょう)

鏡は自分を映すのと同時に、自分の母親の「こうしなさい」が込められていると考えると、鏡に映った自分の顔は自分であり、鏡に映った他の人であり、自分の母親の躾や言ったことが同時に入っているのかも知れません。

お母さんが亡くなる前に白雪姫に願った「三滴の血」は、女児がこれから生きるのに必要な、「美しさ・残忍さ・死んでも生き返る」というような、自分が辿ってきた道の事かもしれません。
どれも、「若い男を引っ掛けるのには必要な素質」であります。
(白=美しい肌や純血・少女を表す意味/赤=肉感・唇の赤・頬の赤さ・女性の魅力/黒=若さの象徴であるツヤツヤの髪の色・残忍で悪知恵が働くスナイパーのカラスの色)

女児が大人になるまでに、多少の危機がありますが、「一度死ぬ」というのは、多分、女児が「女性」になる時のことなのかも知れません。

「女性になった時=男性の所有物になる」という筋書きではなかろうか?と思います。

キリスト教圏に於いては、必要な「白・赤・黒」の組み合わせなのかも知れません。

多分ですが・・・
白雪姫も、お子さんを生んだ時、やはり「若く美しく魅力に溢れ、女性として独り占めしていた何かが死ぬ」、そして、やはり、その子供を殺そうとするという・・・

悪循環を作り出しているのは、なんでしょうね。宗教でしょうか?ボーヴォワールの言う「造られた女性像」という文化なのでしょうか?

「子供を生んだら、女性の仕事はとりあえず終了。そして、子供が成人して男のもの担ったら、老婆として死ぬ」というのは、怖いなあと思います。

いくつかある白雪姫のお話ですが、どれも、キリスト教圏の教義と女性の一生が短い物語の中に入っていて「かなり辛辣」ではあります。


ボーヴォワールの狙いは「そういう、「女性はこうあるべき」という古来の概念は棄てて、男を捕まえるためだけ、捕まったら所有物になるだけという固定概念から自由になれば、もっと楽に生きられるんじゃないかしら?」という大きな提案なのだと思います。

職業を持てば「自立」というわけでもありませんし、誰かに自分を所有されなくなったら自由というわけでもありません。
男性の作ったピラミッドの中で上に上がったとしても勝ったという事にはなりません。

自分の頭で考えて、自分が何をしたいのか、どう生きたいのかを決めたらどうかしら?

様々な事を自分で選んでもいいの。

例え、人の手を借りても婚姻しても子供を産んでも、人に決められた道を選ぶのも有りだけど、自分で決めた道も有りなんじゃないかしら?

男性の作った社会に潜り込んだとしても、男性と同じになるということではないでしょう。

むしろ、男性と相互に協力する事で、女性は生きやすくなるんじゃないかしら?

きっと、男性も自分達が作ったピラミッドシステムの中で窒息しているから、風穴を開けても良い頃よ。

どちらも自由になっておしまいなさいよ。

という・・・

女性に発破をかけた主張なのかも知れません。

 

(こんな主張は、西洋のお父さんも、お母さんも、言わなかったのでしょうね・・・。

だから、売れた本なのかも知れません。かなり、衝撃的だったに違いありません。)

 


それにしても、西洋の女性は恐ろしく窮屈ですね。今もそうかもしれませんが。

 

私は、生まれた時から「家庭が崩壊、家族は崩壊していた」、「夫婦とは良いものではないという先入観が育った」、「男性として育てられた部分が非常に多い」、「その場所に留まることを知らなかったし、留まることを強制されたこともなかった」、「学問の自由・思考の自由を謳歌できた(もちろん、図書館のお陰だったり、お金を出してくれた祖父母のお陰だったり、男女関係なく接してくれた先生が多数いたお陰)」「男性も女性も同じように生きている事を知る場所で育った(自然界は男女の差が見えないというより、どちらも厳しい世界で生き抜く)」という生活をしてきましたので、人間の女性の事をよく知らなかったというのがあります。

未だに「自分は人間なのかどうなのか分からん」という迷路に入っている。

個体としてはヒトの形だが、男女の差は細胞を分解してみないと分からんぐらい。(DNA・RNAの塩基配列のプログラム級の差は消せないでしょう・・・の辺りに漂っています)

そして・・・

家庭という幻、家族という幻を知らない。
母親という幻想が無い。
男性として育てられた。(自分の道は自分で切り拓け)
自分で考えて行動し、責任を取るのは当たり前。
日本のコンイン制度の落ち度や、あまりにも西洋キリスト教圏の宗教思想が入り込んだ法に魅力を感じない。
自分の身は自分で食わせる。
子供を産まない(母親があんまりな加虐者であったため、脳の機能障害を疑っていた)と決めていた。
避妊は男性に任せるということは一切したことなし。(古い時代からでも、避妊は女性でも方法がいくつかありました)
殴られたら殴り返す(報復というのではなく、やられた場合「話し合いが無理なら、体験してもらう」という方法)
主張を持ち、相手と渡り合うだけの知識は最低限入れておくことは基本。
・・・
少しだけ書き出してみると「第二の性」で描かれていた女性の一生とはチョット違うように感じます。

ですので、「女性のことを知らない」というのは、本当です。
そこに齟齬が生まれてしまう事が多くありました。

確かに、日本の女性も戦後の教育は非常に「西洋風味」です。
しかし、明治~昭和にかけては、まだまだ「和風」が残っています。その時に生きていた人たちに育てられると、女性というよりニンゲンとして育てられるという事も多くあります。


生理も「スポーツをやっていれば、あまり気にしない方が得策」という精神状態でしたし、幼い頃から激しいスポーツをやっていると、生理による気分変調や体調の変化は気にならなくなります。

走り込むというスポーツですので、内臓まで鍛えちゃったんでしょうか?分かりませんが。

確かに、スポーツをやる機会が少なくなってからは、体調や気分の変化が大きくなりましたが、40代まで海に入って遊んでいたので、あまり・・・そういう不調は感じていません。(そろそろ、「でした」になりそうで、面倒なことが一つ減りそうです)

 

恋愛で男性が戸惑うことも多かったようです。
相手にとって私(女性)が「言うことを聞かない」「我が強い」「コンインには向かない」「自由過ぎる」とこぼして去っていくので、不思議でした。
ということは?
「言うことを聞く」「我が強くない(自分の考えを持たない)」「コンインに向く」「自由ではない」という女性は恋愛が上手なのかもしれませんね。

なんというか、天然(少しほんわりしていて、ふわっとしている)の女性の方が、まだまだ需要が高そうな気がしますが・・・。

しかしそんな事では、今の世の中を渡っていけないでしょう。
だから、日本に住んでいる女性は優しく笑っていても、芯がしっかりしている人が多いのだと思います。

西洋との違いは、日本の島国という狭い空間の中で、どう上手く立ち回るかが大切なのかも知れません。
しぶとい人は多いような印象を持ちます。

それにしても、道理で、私の友人には男性が多いはずです。
この本の「男性」のように凄まじくはありませんが、「女性像」からはかけ離れた思考と行動様式を持っていて、女性の話に対して時々「それ、分かりません」となってしまいます。
(いろんな文化のごった煮になっている可能性もありますが、分かりません)

私は、形こそコンインをしていますが、やはり子供はいません。
もちろん、「子供は?まだ?」と言われることも有りましたが、最初から考えていないので、それを聞いた人にはその時だけ「ん?何のこと?頭おかしいの?」という不思議な人を見る目で見ると、もう聞かないでくれました。
(日本の人は聞きますが、日本国外の人に聞かれたことがないので、「こうだ」という事がハッキリ言えないのでどうしましょう)


「家族」という単位、「家庭」というものをハッキリは知りませんので、他の人と比べること自体無理があります。

「所有される」という意味が分かりませんが・・・。生き物は、無機物なモノではないので。

あと、西洋文化の中で「獣はニンゲンに劣った存在」という価値観が分かりません。
その場に行けば、その価値観は我が物になりますので、違和感は消えますが、分からないのは「ヒト」も獣に違いないのに、なぜ、そこまで汚らわしいと思うのか。

キリスト教圏で「迷える子羊」の、羊は獣では無い?

「私達上流階級の女性は快楽を禁じられています。獣のように快楽を貪る事は忌むべき」とは、どういうことなのでしょうか。

フランスは娼館の娼婦が「快楽」を提供する貴重な場所だったのでしょうか。

それでは、昔は女性の愉しみに「性的快楽」は含まれていなかった・・?

江戸落語だと、そういうふうな物言いは無いです。
性におおらかだという風潮は、「長屋の前で、奥さんたちが椎茸やキノコを持って、あーだこーだと談笑している」という場面が描かれています。

平和な鎖国時代は、「愉しみ」は多かったように感じます。

結構、日本って開けてました。

昭和の20年頃(1945年頃)からでしょうか、完全に「西洋ではなく、アメリカ文化」を賛美し始めたのは。

あの大雑把さと非情なる階級差別と、人種間の壮絶な差別は入ってこないみたいですが、東洋の端っこの日本の特異さにアメリカ賛美が入ってきた時に、どうも、心の調子を崩したヒトが多く存在しているような気もしています。

そして、もっと分からなのは「第二の性」の中で、多文に精神分析医の名前が出てくることです。彼等はどうかしているので、ちょっと参考になりません。

特に、フロイトの精神分析論に関しては、原文と、原文の原文が全く違うのでどちらを支持していたのか不明瞭です。

フロイトの男根主義は、学問の分野で男性ウケが良かったらしいです。しかし、その前の原文は、全く違うものです。

未だに、日本で「フロイト」という名前を出すとしたら「ちょっとこのヒト大丈夫?」という目で見られてます。


彼女の言う、ユートピア的というのは「ユートピア/トマス・モア著」のユートピアではなく、きっと、「理想郷」としての存在なのでしょう。

トマス・モアのユートピアを読んだ時、「なんだここは? 日本の良いところが詰まってる。でも息苦しそうだなあ。無理矢理な感じは多分ユーモアだろう」という感想を持ちました。


「第二の性」を半分ほど(Ⅱだけ)読みましたが、

ここまで全てを踏み潰して、ショックを与える必要がどこにありますか。

時として、ショック療法は役に立つかもしれませんが、ほとんどの場合、その衝撃により「麻痺」してしまう事の方が多いのです。

麻痺した後は、そのショックを与えたヒトに盲目的に追従してしまうか、すべてを諦めてしまう。

選択はその人に委ねられていますが、それでも奪えないものが有るのではないでしょうか。

発破の掛け方が、負の方向に向かわないほうが良い時代になりました。

この本を読む世代、読む年齢、読む場所によって、人の選択は変ってきます。

 

しかし、一つだけ確かなことがあります。


私は数万年かそれ以上の歳月「種としてのヒトの女性」(社会的・生物学的な性別であれば何でも、心が女性でも何でも)の割合が「約半数」この地球上に存在し続けいている。

その事実だけで、充分偉大だと思います。

無機質な数字が物を言う時があります。

全てをひっくるめて意味を成す時があります。


「充分がんばってきたじゃないですか。我々は」


勝負はついているんです。

五分五分です。

引き分けています。

これ以上明確な数字がどこに存在しますか。



 

さてさて、まだまだ、分からないことがありますので、「Ⅰ」を読んでみます。

「Ⅰ」の目次が「運命・歴史・神話」なので、相当面白そうです。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学は鋭いです。


どうも「二番目の性(第二の性)」と言うのは、「2位の性別」ではなく、生物学的性別、社会的性別の内の、「社会的性別」のことだと分かりました。

「男性の下位としての性別」という意味ではありませんな。内容的に。


*参考文献
完訳「グリム童話集」第二巻
訳:金田鬼一
岩波文庫・赤版(1979・改版第一刷発行)


 

--余談--
随分前ですが、オットが「誘われて断れなくて風俗に行ったが、最後までやらなかった。オレのせいじゃない。オレは潔白だ」と吐きました。 

性病検査を受けてもらって多額のお金を払わせました。もちろん、私の検査もしました。ビョウキはイヤですから。何の病気でもそうですが、闘病はとても辛いです。
(結果、二人共シロで「他の病気も何もなかったので、安心だなあ」と、私は軽く思ってました)


その後、夜を過ごして数日してから、オットに対して「あなたを買ったのですよ。合法で。しかも無料だった。性病検査代も掛からないから良い。素人の女性の場合もっと高く付く。その上、都度都度、性病検査してたら身がもたない。」と言ってみました。

オットは愕然としてました。

オットが「女性をお金で買う」のが「合法だから。浮気じゃない。アレは商売」と言うので、ちょっと言ってみました。

オットも逆の立場になると、驚いたようなのですが、私のほうが驚きました。

自分が何をして、何を言って、どういう思考をしてたのかを知らなかったようです。


その後、自分がやったことを考えたようで、どうも人身売買は出来なくなったようです。

なぜでしょう?

今の時代、女性も男性もないでしょうに。

出費が怖いというより、病気が蔓延しているという事実の方が怖かったのかな。

対岸の火事より、自分の身に火の粉が降り掛かるとヒトはやっと「何が起こったか」を認識するようです。

そういうものです。

(江戸時代、女性が男性を買うことは「有り」でした。自由な時代がまたやってきたかな。戦争が無いと、色々自由になるような気がします)


無料で合法で、相手に対して性的な接触をするのは、恋愛でも同じでしょうに。

無料で合法で、相手に対して性的な接触をするのは、コンインカンケイでも同じでしょうに。

今の時代「男性なら許される」は、何が有るのだろうか。

そういう物があった時代も経験しましたが、見かけなくなりましたなあ。






よろしければっ (。・・。)
 




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