本「楽園」/花房観音/2017








「楽園」
花房観音/著
2017/初版
中央公論新社/刊


たまには毛色の違った本を読みたいと思って、チョット探してみた。

2014年に発行された本なのだと、本の末尾に書いてあった。


こういう本を読んでこなかった事に安堵した。

そして、私は、そこに出てくる女性が、全て「西洋風味」の感覚に陥っているという痛々しさを感じた。


舞台は京都なのに、そこには「西洋の女性の中年期」が描かれていて、違和感を感じた。

ただし、コレは、私が何も知らなかったからだと思う。

年を取ることに恐怖感を抱く女性も、本当に多いのだろう・・・という事さえ知らなかった。

私は、もう暫くで50になると思う。(生きていれば)

でも、年を取ることが怖いとか、抗うという気持ちを持った事が無かったから、そういう女性たちが、もしかして本当にいるのだとしたら、失礼なことを言いやしないかと思って、身が竦む思いがした。

失礼なことを言えない年齢。


私も、更年期という時期だけれど、これさえ越せば、性別に惑わされなくなるし、思春期のような動揺も無くなり、やっと老人になれると思っていたから・・・

もちろん、体が大きく変化するときは、自律神経が全て失調していた人生の延長線上で、もしかしたら、この機会を運良く超えれば、自律神経がもう少し穏やかになる可能性も有るのではないかと思ったりしている。

「オンナ」という生き方を知らなかったから、世見の女性に対して冷たかったのかも知れなくて、とても申し訳ない気がした。

女性は、常に優しくするべき相手であって、敵対する相手ではなかったけれど、自分の外見が女性だということを常に失念していた。



1949年に発行された「第二の性」を読んだ時に「うそだろ~・・・(絶句)。なんて窮屈なんだ」と思ったけれど、その「西洋の1949年あたりのフランスという西洋」が、まさか日本で息づいているとは・・・という、不思議な感じがした。

どうしてこうなってしまったのだろう。

「愛」という言葉は、キリスト教を母体としている国々の言語で、日本語に訳せない。

「SEX」という英語は、日本語に訳せない。

なのに、しっかり根付いている。


日本の懐の深さも有るのだろうけれど、女性が苦しむような、男性が苦しむような言語は、そろそろ弾いても良いのではないかと思っている。

文化の鎖国をする必要はないけれど、影響を受けて苦しくなるのならと、この国はそれを弾き続けてきたのに・・・。

一体、どうしたんだろう。


2014年に書かれた本なのだけれど、「バブル」「バブル崩壊」「えんこう」という言葉を操るには、私より10歳ぐらい年上でなければ、その言葉の概念や雰囲気を掴めないだろうなと思った。

著者は、多分女性なのだろうと思うし、私より少なくとも一回り上なのだろうな・・・と、思った。

2014年の本なのに、すごく遠い昔の話を読んでいる感じがした。

(もし、違っていたら、「女の年齢は本気で分からん」という通説が正しいことになるなあ)


もしかしたら、その頃(バブル期)の女性は、大きな渦に巻き込まれてしまった年代の人が多いのだろうか。

私が社会に出る頃には、「不景気も不景気。どん底。株価9000円台、最低6000円台」という時代だった。

(只今、23000円~26,000円辺りをウロウロしている。景気が良いなあと思っちゃう。そんな感覚を持ってしまうほどのどん底だった。)

だから、バブルとは全く縁がなくて、その時代の女性が、ナニを犠牲にして、何を得たのかを知らない。

とても申し訳ない気分になる。

どん底からは、ただただ掴み取るだけだったから・・・。いい目を見ていないのは、不幸なのか、幸なのか・・・。


この本の中の「アンチエイジング」というカタカナ和製英語が、女性を苦しめているのだとしたら、いつの間にか、西洋の思想に染まってしまった時期があったのだろうと思って、迂闊なことは言えないなと、肝に銘じた。


しかし・・・

anti-ageing は、「成熟することに反対」という事。

なぜ、成熟することがそんなに怖いのだろうか。


わからないことは、口に出さないほうが良いと思って、今日も口を閉ざそうと思う。

下手に褒めることができないのも、すごく不便だ。

「良い年のとり方をしていますね」は、有難うと思うけれど、「お若いですね」と言われたり「若く見えます」は、「どうぞ、気を使わないで下さい」と思う。

だって、私が30歳より下のときは、「成熟した女性の深い思慮や、年令を重ねた美しさ、年輪の分だけの強さと儚さが美しい、年を取ったらどこか頼りがいが有る女性、手を繋いで歩きたくなるような美しい花」と思っていたから。

そうなりたいと思う女性に沢山出会えていたから。


この本の、最終章が、秀逸だった。

苦しい思いをして、そこまでの女性の背景を読んできて、それを包み込む人が居るということで、ホッとした。

この最終章が無ければ、ただただ怖いだけの物語になってしまっただろうと思う。


遊郭・・・

江戸が全盛期だと思ったけれど、きっと、古来からずっと続いている。

男性から見た吉原・岡場所は落語で聞いたり読んだりしたことが有るけれど、女性の側からの「遊郭」は、見れないことが多い。
(多少はあるが、その行間から読むしか無い)

男性が一様に思っているような単純な場所ではないからだろうな・・・と、思う。



そっか、遊郭や岡場所は「花街」とも言うなあ。

映画「居酒屋ゆうれい」(1994)で、お魚屋さんが「昔、あったんだよ。この辺りにも。花街」というセリフがあった。

そこは、多分、舞台が横浜?なのかもしれないけれど、実在の場所ではないような気がする。

でも、様々な場所に花街や遊郭(赤線・昭和の売春禁止法で一応撤廃。地下に潜ることになる)があった。

私が知っている赤線の場所には地域防災センターと公園というゴリッパな物が建ったりしていて、チョット笑ってしまう。(隠し方が露骨だから)



この本の舞台が、色街、花街、遊郭、岡場所、赤線に近い雰囲気なのが、なんとも言えない郷愁を誘う。

祖父は赤線の話をした。(私が高校生だったのに・・・。なんともおおらかな性教育で助かる)

男性から見た赤線は、ふらっと立ち寄りたくなる場所なのだそうだ。祖父はね。

明治の男は、よく遊んだねえ。

その代わり、守るものはしっかり守った。

「遊ぶ時は遊ぶ、しかし、命がけで守るものは守りきった」
当時の私には、明治の男が、そう映った。

同時に、実は女性も抑圧されていたばかりではなかった。



フウゾクという通り名で営業している場所も、公安が許可したり、許可しなかったり・・・

いったい、許可する・しないの基準はどこに有るのだろうか?



しっかり赤線が在ったときは、「そういうもんだ」って、なんか、思えたんだけどな。


ルールや規則、禁止事項が増えれば増えるほど、抜け道は増える。

「そういう種類の仕事がある。仕事内容はこうである」と、フウゾクについて、もっとしっかり知らなければ誤解してしまう。

「性については禁句」という今の風潮をなんとかしなければならないのではないか?と、痛感する・・・。という、お硬い読後感になってしまった。



この著者の本を他に知らないのだけれど、どの物語もこんなに怖いのだろうか。








よろしければっ (。・・。)

   

 


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