ピアノ(モーツァルト・トルコ行進曲)




ピアノが嫌いだ。

聞くのは好きなのだが。


やはり、無理やりやらされたピアノは見るのも嫌だった。

虐待と一口に言っても、今、やっとその姿が浮かんできている。

「嫌なことでも、無理やりやらされる。生き抜くために」というのも、きっと、精神的な暴力としてカウントされることだろう。


ピアノの先生は、確かに指が長くて音がしっかりしていた。

サイコパス母親は、そのピアノの先生と共に、私をプロにしたかったようだ。


無理。


素質ってものがある。

絶対音感なんて、誰にでも備わっているだろう。

しかし、私の指は短かった。

そりゃ、日本人のサイズに作られていないピアノは、鍵盤も大きい。

モーツァルトが弾いていたであろう、チェンバロみたいに小さな鍵盤の楽器だったらなあと思ったりもするけれど、後の祭り。

私は「他人の思い通りにならない子供」であったのであろうから、加虐者の権力欲や名声を得たいという欲を叶えることなど到底無理だった。

加虐者は周囲の人間を巻き込んで、自分のゲームボードに乗せた被虐者をゲームの駒として面白がるだけで、その駒に生命が在るかどうかは関係ない。


そんな中で、ピアノを弾いていると、呪いの言葉を始終聞くことになる。


呪いの言葉を跳ね返す時に、自分で作曲してしまう方が面白かった。が、加虐者に対しては「反抗」としか映らなかった。

与えられた事をこなすのがフツウだということは、最近知ったのだが、与えられたことをこなして、その上、呪われ続けるというのは、やはり異常だとも知った。


自分がやられたこと、やられてきたことが分からないというのが異常な状態であるということ自体が、もしかしたら虐待の正体なのではないかと思う。





フツウではない状態で弾いたピアノは、きっと聞けたものではなかっただろう。

弾いていると風景や情景が浮かんでくる楽曲を弾いても、全く楽しくないのだ。

その「楽しくない状態」が音に出るのは当たり前。だから、間違わずに弾いても下手だった。


ただし、自分が作ってしまった曲を弾いている時だけは、楽しかった。

どんなに呪いの言葉をかけられても、自分の内側から湧き出て来る物に対しては、呪いが掛からない事もあると知った。


楽譜はきっとどれも、完璧なのだと思う。

しかし、自分で作ってしまった曲は、完璧ではないと思い、それならそれでも楽しければ良いと思い、思いっきり弾いていた時期がある。

誰も聞かない、誰も知らないまま。


時が経ち・・・


ピアノの鍵盤を見ると吐き気がするほどになり、ピアノの音を聞くと生きた心地さえ感じなくなり、やめてしまいました。


また時が経ち・・・


不思議なもので、今、スマホは面倒でほとんど使いませんが、PCのキーボードを叩いている時には、嫌な感じがしません。

気持ちや感情を楽器の弦に伝えるのが音楽だとしたら、PCのキーボードを叩き続けるのと、ピアノを弾いている事が同じように思えます。



そういえば、PCのキーボードを操作する練習はほとんどしませんでした。

自転車に乗る練習をして、自転車に乗れるようになれば、それを体が覚えるのと同じように、感情を体で表現する方法を一つでも身につけておくと、それを応用すれば良いだけなのかもしれません。




最近、被虐待サバイバーとして生きている感じがしなくなってきました。

今、年齢的にも50に手が届く頃です。

心の中に「何とかなった。何とかなる」「生き抜いてきた」という思いが自分を支えている感じがしています。


吐き気がするほど嫌だったピアノを弾こうとしても、今更弾けないのは分かっていても、同じようにキーボードに心の中を打ち込んでいるのは、何か同じような気がする時もあります。

誰かに向かって話しかけているのではなく、心の向くまま、気の向くまま、指が動いているのですから、それが音になれば、今、どんな音になるのか、少し聞いてみたい気もします。



YouTubeで、心から楽しんでいる指揮者さんを見つけました。

(音が出ます。)




Юрий Иванович Симонов さんという方が指揮者さんです。

素晴らしい指揮と演奏です。

豊かな感情表現に載せて演奏する曲は、そこに飛ぶことが出来ます。


楽曲は「モーツァルトのトルコ行進曲」です。



できたら、こういう指揮者さんみたいな楽しいピアノの先生の元で弾いてみたかったです。


指揮者さん、交響楽団の方々、ありがとうございます。







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