図書館へ(新型コロナ騒ぎは終息した模様→もう次の話題に移ってる模様)



近くの図書館に行ってきました。

図書館の庭で花の写真を撮っているおっちゃんがいて、つい、声をかけてしまいました。

「白い菖蒲ってあるんですか?」

花を愛でる人は、幸いである。


借りてきた本は、いつになくテキト~な感じになった。

借りてきた本を並べたら滅茶苦茶な選択だった。

(本の画像をクリックしても、アマゾンに飛べません)

マトリックスシリーズを見ているせいだろうか?「選択肢なんて最初から無い癖に、自分で選んだと思った自由は幻想だ」みたいな。

さて、山本七平氏の「日本人とは何か。」「私の日本軍(上・下)」など、氏の本にドップリ浸かっていた状態で、図書館へ。



「菊と刀」ルース・ベネディクト/著

(訳した人が、防衛大学の教授。
情報機関にいたベネディクトの日本観についての教科書にしたかったら、その筋の先生が訳さなければならない裏事情が透けて見える。)

この、ベネディクトの「菊と刀」は、山本氏が至る所で訂正しなければならなかった迷惑本だったらしい。
氏は「また菊と刀かい?」と、あきれ果てて、鼻で笑っていた。

私も覚えがあるが、「本で知ろう日本」という趣旨で英語で書かれたものは、大概屑である。
「ブシドウをしっているか?」と意気込まれた時には、はっきり言って引いた。

読んでみて、また引いた。

トンデモニホンの姿がどんなだったのかを知りたくて、山本氏に鼻で笑われた「菊と刀」を読んでみようと思った。

確かに、最初からぶっ飛び本だった。
(移動中に読むと、笑ってしまって読めない)

(そういえば、ゴッホは「お菊さんは読んだかい?」という文句を、手紙に書いていたが、菊が日本に関して書かれた本のどこかに含まれている事は、確かに多い。
菊のご紋は、触れないでおく。)





「わたしの渡世日記・上」高峰秀子・著

読みたい場所を間違えて、下を先に借りてしまって、やっとこさ上を借りた。
戦後日本の「瞬間顔芸」とも言える、変わり身の早さは、もはや歌舞伎ではないかと思う。


「壁」阿部公房・著

ぶっ飛びたい時に、お守り代わりになる。



「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」
ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール/対談・著







 

なんともそそられる題名です。
「紙の本」も、新しく発明されたころは「書いたものを読むと頭が悪くなる。物覚えが悪くなる」と、毛嫌いされていました。
新しいものが出てくると、新しいものに触手が伸び、旧のものには、これまでそんなに考えもしなかったのに不思議と愛着がわくという現象自体は、大昔から変化していないようで。

お二人さんの博識の元になっている本が五万と出てきそうなので、「次に借りる本リスト」が増えそうで楽しみ。

いいじゃん、どんな記憶媒体でも。
私は本を触ると、悪夢を見ずに眠れます。寝る前にがっつり読みはじめて目が覚めてしまえば、悪夢も見ずに朝ですから。



「太宰治全集」(9/筑摩書房)
高峰秀子氏が「グッドバイ」について触れていたので、「グッドバイ」は読んだ。
しかし、他の「これをまとめました」という編纂文庫だったりは「重いですよ。これでどうだ。これは読んでおこう」という押しが強すぎて引いていたのだけれど、この、太宰治という人は、いったん文章を書き始めると、「真面目に生きようとすればするほど、すごく面白くなってしまう」という、文豪であります。

玉川上水脇に住んでいた事があるのですが、窓から見える上水脇の緑と、水がほとんど無い流れであっても、不思議と引き付けるものがある場所でした。
人工の上水ですが、自然が作った川とはまた違った優しさがあります。
橋を渡る度に「どうやって死んだんだ?」と・・・。何度思ったことでしょう。
(そして、橋の上からよく、下を眺めていた)


「芸術新潮」2021年9月号
(猥褻とはなにか)
今更ながら、ニホンの「ワイセツ事情の不思議」の謎が深まるばかりなので、久々にゲイジュツと名のつく雑誌を借りてみた。
陰毛がワイセツなら、まつ毛は「露出したワイセツ物ではないのだろうか?。裸眼なんて内臓だぞ。同じ個体がバラバラにされるという事が分からん」。

この間、UPした画像がAIから「陳列禁止」を食らった。
その画像は、例えるならば「バービーちゃんの上半身が裸だっただけ」なのだが。
ヒトと人形の区別もつかんAIのミスは致命的だが、たぶん、バービーちゃんの下半身露出では「陳列禁止」にはならないだろうという、その価値観が分からん。

「女性の乳首はワイセツ」なのが、AIの基準らしいことは分かった。
(日本製のAIでは無かったので、ワイセツ物にされたのか?。AIに国籍があるとは知らなかった)

ワイセツは、文化や地域によって違うのだろうが、これから先、AIによってどこまで表現の自由が奪われていくのか見ものである。

そして、不自由の中での自由な表現をする訓練は楽しいことになりそう。

デジタルでの表現が狭まってきたのを機に、私は紙のノートに手書きの文字を書き始めた。
その冊数が何冊になるか数えていないけれど、少なくとも、AIによる削除や排他・監視から逃れられているという心地良さを取り戻す事ができた。

なんでも表現すること自体が淫猥だとしても、そのAI関所を無視する方法は、デジタルに接続していない方法で表現することなのかもしれない。




図書館から借りてきた本と、家にある本が、もう手に負えないほどのバラバラ。
カテゴリ分けなんてもう無理です。

私の書棚は見せられませんが、図書館から借りてきた本なら、ワイセツな気分にならないので、ギリギリです。







よろしければ(ΦωΦ)
 






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