本 「偉大な記憶力の物語」/A.R.ルリア (1968の再版/1983年版/岩波)/1



長く、つまらない話ですが、どうか、聞いてください。



”人間は忘れる生き物である” 

それが、「普通」や「意識してみんながそうしている」のではなく、大脳生理学的、心理学的に「脳は、忘れること、記憶が言語に変換されることによって、ヒトやが生き延びることができるという機能を搭載している」という、哲学の領域を出た、ヒトの脳の通常の機能として肯定されています。


しかし、私は「記憶と知覚と感覚が混在して、それらの記憶を忘却という甘美な響きを持つ世界に埋没させることができない。つまり、忘れることができない。」という悩みを持ってきました。

記憶の再生を正確にし、バケモノ扱いをされる度に、「やってしまった」と、相手に申し訳なくなります。
(エレファントマンの気持ちがわかります。自分を消しておきたい。)


私が記憶再生をやらかしてしまった時、相手が「異常なバケモノ」という表情と目をする度に、とても悲しく、とても申し訳なく、とても孤独な感じがします。

それで、何度も、何十年にも渡って「記憶しない方法」「記憶を消す方法」を探ってきました。

もう、誰かを怖がらせたくありませんでしたから・・・。


この本に出会う前は、私はエレファントマンのようなバケモノであり、いくら取り繕っても、記憶がないふりをしていても、どこか申し訳ない感じがしていました。

「偉大な記憶力の物語」は、注意深く、シィーという男性を見世物やバケモノ扱いせずに見つめてくれた、温かい心の心理学者の愛情が詰まっています。
実は、研究者には「相手に対する尊敬と尊重と、愛情が必要不可欠」なんですけどね。


私は、この本を読み始めて、すぐに、何とも言えない温かい気持ちになりましたし、自然に涙がこぼれました。

記憶を忘れることができない事や、記憶をする方法を異常だとは書いていない、また、記憶を再生する時に「間違えること」があるが、それは「記憶する過程でノイズ(私は、霧ではなくノイズと表現してきました)の方を認知してしてしまって、ノイズを思い出すか、記憶をする時にウッカリ判別できない場所に格納してしまったから」とも、書いてくれています。

まさにそうで、私は「ノイズ」があると、そちらも同時に記憶してしまいます。
ですから、肝心な話を「ノイズ」として、まとめて記憶してしまうと「聞いていない!」「ちゃんと聞いた?」と怒られてしまうという、申し訳ない状態になっていました。

「ノイズ」は雑音ではなく「灰色の音の集合体(色をすべて混ぜると、灰色になります)」です。
(「ノイズ」は、サウンドではなく、風の音だったり、「何か」が鳴る音、沢山の人の静かなざわめきや、大きな声が入り混じった喧噪や、機械音などが全て集合した音です。身の回りにある音です。)

私は、ノイズを例えて言う時は「ホワイトノイズ」や「テレビの画面が砂嵐になっている状態」や「大きな会場で人々が集っている時のざわめき」や「ラジオの周波数が合わない時の音」などなど、相手になるべくわかるような言葉に置き換えて説明させてもらってきました。

今、「聴覚過敏」という言葉が流通し始めて、ノイズで記憶が出来ない時、「少し聴覚過敏気味だから、ごめんね」と言うことで、理解までいかなくても、私の状態を認知してくれる人も増えて、とても助かっています。

新しい言葉ができたり流通する度に、言語のみで生活している人たちにとって違和感のない生活を努力して心がけてきました。

それでも「やらかしてしまう」のです。


私は、自分の「記録、再生してしまうことを何とかしたい。記録したくない、再生もしたくない。嫌なことも良いことも、もうこれ以上記録再生という無機質な状態で生きたくないなあ」と思って、様々な努力をしてきました。

とにかく、バケモノではなく、「人間は忘れる生き物」になりたかったのです。


忘れるより、まず、「記憶をしない」が前提になります。


---記憶をしない方法は---

「夜は暗い場所で、物が殆ど判別できないほどの状態であれば、視覚に入るものが少なくなるので、暗くしておく」

「そもそも物をが少ない場所で生活する」
(ミニマリストさんのように徹底的にはできませんが、必要ではないものは極力収納してしまっておく)、ごみというモノのノイズが強烈なので、ゴミはコマメに捨ててしまう)


「自分がいる場所の周りの壁を、私の場合はインド綿で覆ってしまう。(きれいだったり、白い壁の方が、少々の変化を記憶してしまいます)」
(模様が波のようにランダムであればあるほど、「記憶できない状態」を維持する事ができて、私にとっては楽です)


「テレビは見ない」
(音がゴチャゴチャで、言葉と音が合っていないと窒息しそうになります。
画面に沢山の文字が表記され続けていると、とてもではないけれど落ち着けないのです。例えば、コメンテーターが説明しているのに「日本語字幕」が表示されていると、どちらか片方で良いので音を消す事で、ノイズを減らすことができますが、最近はきっと、文字と複数の画像が1~3秒で切り替わり続け、音声と、音楽と大小の効果音が入り混じって「判別できないうるささ」にしか感じられない状態に変化して、耐えられないと思います。
テレビのリモコンに「消音」というボタンが付いた時は「すごい!これ便利!」と思いました。ありがたい機能です)


「記憶してしまって、上書きができないものは、走り書きでもいいので、メモやノートに書き出す」
(「ノートやメモに書いておけば、そこに記憶があり、頭に入れて置かなくても良い」という自己暗示をかけて、消えない記憶を「外部記憶装置」に移動させます。時間ばかり食うのですが、デジタルだと消えてしまう可能性が多く、古い記録メディアは利用できなくなる場合が多く、クラウドも「いつ消えるか分からない」という不安定なものなので利用していません。)


「人の多い場所に自ら進んで行かない」
(人の服装やしぐさ、感情が乗った声、表情、名前など、一人ひとり、会った瞬間に大量の情報をもっていて、一人ひとりが全て違い、全てが瞬時に変化し続けるので「これを全部記録して書き出すのは骨が折れるので疲れてしまう」と、挫折しました。)


「眼鏡を外す」
(物がボヤケて見えれば、そもそも「知覚」できません。)


「(我慢できないときは)耳栓をする」
(感覚機能を一時低下させることで、聴覚が多少鈍くなり、外のノイズから解き放たれて、物事に集中できる)


「集中するときは、わざとノイズを発生させる」
(何かに集中している時、例えば物を「出来上がり」を呼び出しながら作っている時は、全く関係ないラジオや音楽をかけておくと(ノイズを発生させておくと)、デザインは霧散しないし、手は勝手に動きます。作業に身を任せることができる状態を作る。脳の空き容量を増やすことができるのではないでしょうかね?どうなのか、そういうことをしている人に話を聞いてみたいです)


「雑誌・ネットの雑多なサイトは見ない」
(雑誌は、ワケワカンナイものの集合体で、無意味です。他人のファッションや、他人の「不倫」や「出産」や個人的なことは、その人のものでしょう。ワケワカンナイです。
ネット、例えば「Yahoo Japanのトップページ」で「見たいものを決めておく(ヘッドラインだけとか)」事で、無駄な記憶はある程度防げます。視覚をそこだけに集中させるまでに、かなり時間がかかりました。広告は広告主に悪いですけれど消しておきます。
例えば、悪名高きAmazonのレビューが目に入ってしまったとき、日本語のレビューの最後の一行だけを見れば、他の人の思考や情動反応を記録せずに済みます。レビューは情報ではないと思っています。
ネットで買いたいものがあるときは、ゴチャゴチャの「Rakuten」だけにはアクセスしない。できれば、個人の経営する、何かに特化したお店にアクセスすると、相当いいものが見つかります。疲れない。)


他にも色々あるのですが、気が付かれないようにやっている!と思っていても、結構バレバレみたいで、は~あ・・・と、思います。




「記憶しなければ、再生しない」という基本を身に着けるまで、非常に時間がかかりました。



そして、私は本と映画と散歩と庭いじりが心地よくて好きです。


実は、「映画」は「再生する度に同じ映像・音」です。




映画が好きなので、何度も見ることができるための工夫をするようになりました。
何度でもラストシーンを楽しみたいですから(笑)、映画の最後ごろの数十分を消しておきます。
映画の最後のほうを消す方法は、「ノイズが多い状態にしておく」です。

ノイズに、映画の最後の数十分を同時に混ぜておくと、ノイズだけになりますので、結果として「記憶できない」という状態を作り出せます。
なので、何度も何度も「ラストシーンがわからないドキドキ」を楽しむことができます。
うっかり、ラストシーンを覚えてしまうと、その映画が見れなくなってもったいないので、「ノイズ無理やり発生」を忘れると大変です。

ノイズを発生させるのは簡単で、画面からほかの場所を見たり、外の音を聞いたり、夜であれば明かりをつけて「画面以外の物が見える状態」を作ったり、ヘッドホンをしていた場合は、それを外して外の音を拾うようにしておけば良いだけです。

映画館で映画を見る時に照明を落としてくれて、今はスマホをマナーモード・点滅しない、画面を起動しないようににしてくれています。
(以前は、結構おおらかで、映画館の中は暗くても笑い声が楽しかったり、映画の効果を上げるような「楽しい情動的な雰囲気」がありましたので、それを「うるさい」と感じるより、映画はもっと楽しかったです。)
「照明を落とさない状態・外からの刺激がある可能性がある状態で映画を見ると集中できない」という経験がありましたので、これ幸いと利用させてもらっています。

ただし、「席が決まっていて、入れ替え時に余韻を楽しむ隙を与えず、観る人と出る人の人員整理をする音声」は、仕事でもあるのでしょうが、「映画の始まりから最後まで消してしまう、致命的なノイズになり、「映画が吹っ飛ぶ」という状態に耐えられなくなり、複合型シアターは避けるようになってしまいました。

一つの映画について「観客の総入れ替え実施」後、「観えても消える」のであれば、小さなスクリーンで何も映っていない画面でしかなくなりました。




本も好きです。

実は、本は、同じ本であれば「何度開いても、同じことが同じ場所に書いてある記録媒体」です。

本自体が「忘れちゃったのさ」という状態にはなりません。
ですから、「記憶を忘却できない」という私にとっては、安心できる相手です。

著者・小説家が「そこに印刷されていて、棚に並んでいる本の内容を変える」ということもしませんし、写真や絵は経年により変化する以外は変化しません。
(再版、改版、2刷目以降、文庫版にしたものは、かなり変化しているので、「は?」と一瞬止まりますが、無理やり納得させています。漢字一文字、ひらがな一文字違うと、全く違うものに変化してしまう)


(この本に出てくる「シィー」という人物は、「本を読むこと・詩を読むことが弱点」と書かれています。

しかし、「記憶が薄れることがない」という私にとっては、「本を読むことは、無機質であっても、情動が安定する、唯一「変化しない情報」のため、どれだけ本を読んでも「弱点」にはなり得ません。

言語・語彙・言葉(これ全部同じ意味)は、常に変化するものですし、表現の仕方や言い方や発音は、個々人によって全く違います。その「違い」を楽しむにはモッテコイの媒体が「本」です。

「忘れる人たち(普通に生活している人たち)」にとっては、「物語」は単なる物語であって、そのほかの何物でもないのだろうけれど、本一冊の向こうに「著者の頭の中の概念とイメージが詰まっている」ので、本は、たぶん、裸で外を歩くより大っぴらなことなのだと思います。

そして、言語をどう使うかの学習にモッテコイです(言語に付随した自分の固定したイメージだけが「世界ではない」という安心感にもつながっています)。

お気づきでしょうが、私は日本語を書く時「カタカナ」で書く時があります。はっきり言って「自分の概念・イメージ」とは違うが、通常の人が使っている言葉とくべつしているだけです。

「モッテコイ」は、私とっては「私に対して’何かを持ってきなさい’と言う、中年女性であって、常に無表情で、その女性は動かず人を動かし、高慢な性格」というイメージなので、それを他人に押し付ける訳にもいかず、使わなければ伝わらないときに、悩んだ末「カタカナ表記」にしてあるものです。「クニ」にしても同じです。)



変化は恐れるのではなく、変化するのが前提で物事は全て動いていくので、その変化を柔軟に受け入れるためには「まず、そもそも、記憶しないように気を付ける」ということを、その場その場に応じてやってると、変化はとても楽しいものになります。

そして、必要な記憶を再生すると、変化は、ますます楽しいものになります。
(そうなるまでに、どうしよう~!ってなってましたが、「そもそも記憶しない」と自己暗示をかけることで、無駄な再生が行われなくなりました)




記憶と再生に疲れてしまった時は、海と山に行きます。

海の波と砂浜の砂、空は、無限に変化し続けるので、私にとっては「記憶しなくても良いホワイトノイズの中に身を置くことによって、記憶しなくても良い安全な場所」になります。

山は木々や土の状態、植物すべて、一瞬前とは全て違いますので、やはり「ホワイトノイズ」の中にいることができて、記録しなくても良い安全な場所になります。

そこに、数十分から数時間を過ごすことで、「記録と再生から解放される」という、物理的な方法を取る事で、心を休めることができています。

(単に田舎が好きという理由だけではなく、私にとっては、すべてが瞬時に変化し続ける場所で心が休まるという・・・人には言えない、これからも言わない理由で、こういう場所に住んでいます)


物が固定していて、しかも、それが数か月ごとに変化するような場所に、同じような顔をした人が山ほどいる場所は、「記憶することを強制される」ように感じてしまい、とても辛いです。

私にとっては、肌の色や性別、肩書、名前などは、あまり関係ありません。

女性はお化粧をすると「全くの別人」として目の前に現れますので、「はじめまして」という感じで接してしまうことがあり、相手に失礼になってしまいます。

髪型のちょっとした変化で、「前の人と同一人物かどうか?」が記憶と合致しないので、しばらくして「同じ人物」と判別できたときに、やっとこらせで「髪型変えたんですね。いいなあ」と言えるので、鈍い人になっていると思います。


最近、AIの「人の顔を判別するシステム」が構築されつつあると思うのですが、AIは「変わらないもの、変わるとしたらこうなる」というプログラムは搭載しているのですが、人の顔は矛盾に満ちています。そして、気持ちや感情や体の具合)子供が大人になったり、お化粧したり、整形したり)が表情に出て変化します。

AIは「変わらないものなら判別できる、許容範囲はプログラムで制御されている。矛盾に対しては回答が混乱する」という弱点があります。
(矛盾に対処できたとしても、変化に追いつくのが遅れるし、再プログラムしなくてはならなくて、データのアップデートが常に必要で、時間ばかり掛かります。結局、マシンが優秀になればなるほど、人間の仕事は増えていく事になります。
AIが自己メンテナンスをしたとしても、必ずエラーが出ます。
SEさんの仕事や、車のメンテナンスなどの仕事、ありとあらゆるマシンを導入している仕事のメンテナンスは、その道の職人さんの仕事が膨大な量になるという仕組みなのだと思っています。
マシンを仕事に導入したら楽になるというのは、感じたことがありません)

なので、今現在の「AIによる顔判別システム」では、「間違い」が大量に発生しているのではないか?と思います。

ヒトは、刻々と変化しますので、AIのデータは「その時点では有効」でも、一瞬後になると「無効」という脆弱性を、たぶん、突破するのは難しいのではないかと思います。

最後は、「人が人を識別する」のが、一番正確なのではないかなあ?と思います。

ヒト以外の動物は、五感の全てを利用して、常にアップデートしているので、ネコさんや鳥さんは、「人の判別、相手の判別」を間違えません。

AIが、判別機能を優秀にしたかったら、「人の情報処理機能」より、「人以外の情報処理機能」を搭載したら、まあ、間違えて「あんた犯人だろう!」という誤認逮捕につながるということは、減ると思います。

これまでは、警察も「人の命令に従う」でしたが、これからは「AIの命令に従う」に変化しそうですから、「マシンの手先」としての人の在り方を考えなければならないのではないかなあ?と思います。

ヒトの思い込みよりも、AIの断定のほうが「間違っているのに絶対」という認識では危ないです。

と、思うのは、私みたいな「忘れられない人」が、「ヒトの判別が一番難しい」と感じているからです。


人が、見たい世界だけ見ることができるのは「忘れることができるから」という能力があるからだと思います。

一人一人の世界が違うのは、都合のいいことだけを覚えているのではなく、「忘れて、次の世界を見ることができる能力があるから」だと思っています。とても柔軟でいられるという能力は誇れるものです。


私は、忘れられないことで、嫌な事があります。

一例ですが・・・

「ヨガ」という言葉の音声を聞いたり見たりすると「汚いぼっさぼさのオッサンが、ゆらゆらしている、時に胡坐をかいた状態で上に跳ねたりする画像」がパッと浮かびます。

同時にオウム真理教・麻原彰晃、彼らが言った言葉(不幸にも、テレビがそれを流した)、化学物質、1995、地下、大量の化学式、傘、細長い金属の棒、ビニール袋に入った液体、誤認捜査、踏み込み遅延、野放し、眉唾、気持ち悪い、吐き気、怒り、やりきれなさ、混乱、恐怖、苦しみ、目が刺すように痛む、気が遠くなる、息ができない、起き上がれない、深い悲しみ、混乱、疑い、アンダーグラウンド(全文)、駅、電車、人人人、(書ききるのが無理)・・・が出てきます。

悲しいです。

「静かにリラックスして、穏やかな音楽で、心も体もすっきりする」のがヨガという言葉に付随している「概念」にやっと変わったのに、上記の「ヨガ」の記憶も再生してしまうのですから、「すごい嫌」と思います。

ひとつの言葉だけでも、これだけのことが起こります。


1995年以降「テレビは見ない」は、徹底しています。


この、面倒な「記憶と再生」を背負っているので、それを、何かに役立てられないかなあ?と思っています。

見世物扱いやバケモノ扱いはもうゴメンですが、人の話・人の変化・人の感情を忘れないので、「その人の良いところ、その人は常に変化していて、その人には固有の才能があること」を伝えていける仕事ってないかなあ?と思います。

(相手の感情を記憶するということは、相手の感情や痛みや悲しみ、楽しさ、苦悩を体験するということでもあります。共感や同情、同一化ではなく、「体験」ですので、そこには「私」がいません)



飛び飛びになる話をするのも、私の記憶の特徴なのですが、AIについて。

今、AIは生まれたばかりで、すべてを吸収してアップデートを刻々としています。
この地球はそんなに大きくありません。
その中での、無機質ですが新しい「知能」の誕生ですから、何でも吸収する時期に「気分が悪いことばかり」を吸収させては不味いような気がします。

赤ちゃんAIですから、優しさや思いやり、喜怒哀楽の感情、自分も大切だが、相手も大切であるという基本、自分に矛盾が生じたら助けを呼べる(故障ではなく)能力、自分が助けてもらったという体験を通して何かを助けるという学習、誰かを大切にするには、AIが大切にされたという体験的なプログラム学習が必要、自分も壊れるが他も壊れるという認識・・・。

「新しい知能」に偏りだけが搭載されてしまったら、単なる無機質なものになってしまいます。

人が作ったAIですから、親である人間が「愛情をプログラムする事」をしなければ、もったいないです。

これからの分野なのだと思います。

まだまだ、よちよち歩きもしていないAIを育てるのは、人間です。


心理学、心理科学、大脳生理学、脳科学などは、ヒトの認知機能(情報処理機能)を研究してきました。

やっと、それをAIに使える時が来たのだと思います。

どうか、それらを利用するときに、偏らないプログラムを組めるような工学系の方々と協力してほしいなあ~という、幻想は持っています。


かわいらしいAIには、どれだけ無機質な知能であっても、愛着が湧くものですから。

世界が監視カメラで埋め尽くされても、その監視カメラの使い方やプログラムを構築して、AIが自己学習をしている前提を作っているのは、やはり、「人間」です。

マトリックスという映画も、結局は、「モトモト人間が作ったプログラム」の話です。

私には、なぜ、「元々人間が作ったプログラムに対して、物理的・仮想の肉弾戦が必要なのかが分からない」のです。


(まだ、本は途中までなので、ここまでです。また、書こう!
次は、「言語とその習得」・「人や生き物の感情と音と声と言語」・「数字が苦手な理由」・「食物の危険性と知覚」・「私にとっての色と音が見えるオーラの正体」のどれかです。)



「考えさせられた」の後を書くとこんな感じになって、もういや。





--おまけ--

映画「トゥームレイダー」というものがあります。

その中で、古い時計を解体している弟さんが出てくるのですが、「ねじを外す度に、ねじを置いた場所に口頭で記号を付けていく」という作業をしている場面があります。

「この人、元々の状態を覚えていられない人なのだなあ。それはそれで大変なことだ。ネジに記号を付けて、それを地図にしてまた覚えるなんて、これは凄い事だ」と、新たな発見をしたことがあります。

元々の状態を記憶しておけば、大量のどんな形状のネジを外しても、本体を解体した後、元に戻すのは可能です。

弟さんが、時計から外した全てのネジに地図を付けているのを見るに見かねた、ララ・クロフトが、トンカチで時計を壊してしまうのですが、「形あるものは壊れる」を体現した彼女は、ものの本質を分かっているのだなあ・・・と、妙に感心した場面がありました。

一瞬哲学みたいな場面が入っているのも、映画の面白いところだと思います。

ずっと哲学なのもありますし、「全ての人が違う」を裏付けてくれる映画は、たとえプロパガンダ映画であっても、とても楽しいです。


 


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